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【日本史】鉱山島対馬:対馬と金

 通史を読んでいるとき、対馬元号について触れている箇所があった。つまり、対馬で金が発見されたことを祝して年号が改定されたのだという(後述)。朝鮮半島の玄関口の一つとしてわが国の歴史において重要な役割を担ってきた対馬だが、他方でわが国の鉱山史においてもまた肝要な土地であったというわけである。
 調べてみると、意外にも20世紀中葉まで対馬は「鉱山島」としてわが国を支えてきたのである。他方で対馬朝鮮半島との関係やその中継地点としても歴史のために、海神信仰をはじめとする多数の神社を抱えてきたといった歴史もある*1。とはいえ、本稿は対馬における鉱山の歴史をメモレベルだが簡単に見てみる。


対馬銀山の略史

年 号 紀  元 内容
白鳳3 六七四 銀を貢上
延暦15 七九六 銀抗の修理を命ぜられる
貞観6 八六四 大納言殿千人間府伝説
貞観7 八六五 銀抗の修理を命ぜられる
延長5 九二七 対馬島の調は銀とする
寛仁3 一〇一九 刀伊賊銀穴を燒く
承徳2 一〇九八 大江匡房二度太宰師となり対馬貢銀記を著す
嘉承2 一一〇七
文明18 一四八六 豊後の鉱夫二百余人銀山に入る霖雨のため失敗
慶安3 一六五〇 畑原氏銀山開発、最盛期をむかえる
延宝3 一六七五 琴の銀山閉じ、鉱夫を佐須の銀山に移す
享保15 一七三〇 鯖淵に試掘
元文2 一七三七 銀山をとじる
寛保3 一七四三 樫根の銀山を試掘
明治36 一九〇三 佐須鉱業合名会社
明治41 一九〇八 安田鉱山(シーファブル・ブランド合資会社)
大正6 一九一七 大阪亜鉛株式会社
昭和13 一九三八 白川隆彦所有
昭和14 一九三九 日本亜鉛株式会社買取
昭和16 一九四一 東亜亜鉛株式会社と改称
昭和48 一九七三 閉山

(出典:冶金の曙*2


目次


飛鳥朝廷を北に見立てた対馬を中心とした正距方位図
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(出典:どこでも方位図法)

対馬と金

 冒頭でも述べたように対馬で金が取れたことが改元の経緯になったという。 少し長くなるがその顛末について引用してみたい*3

年号大宝は、七〇一年三月二十一日に対馬嶋(中略)からの金の貢進を祝う形で制定されている。(中略)その二年3ヵ月前の六九八年(文武二)十二月、当時大納言だった大伴御行の指示により、大倭国の雑戸(特定の技術を世襲しながら宮司に勤務するのを強制された戸)であった三田五瀬を対馬嶋に派遣して金鉱石の精錬を行わせている。対馬嶋で金鉱石が発見されたとの情報が届いたからである。三田五瀬は無事大役を果たして金の精錬に成功し、金貢進のセレモニーによって大宝の年号が制定され、関係者一同褒賞に与るというハッピーエンドを一応は迎えたのである。
 ところが、である。『続日本紀』はこの褒賞記事の末尾に註記している。「のちになって五瀬の詐欺が露見し、贈右大臣(大伴御行は大宝年号の制定をみずに他界し、右大臣を追贈されていた)が五瀬にまんまといっぱい食わされたことがわかった」。(中略)「五瀬の詐欺」というのであるから、対馬で金鉱石が見つかったこと自体は嘘ではないのだろう。あるいは精錬をごまかして、新羅あたりから金を調達したのであろうか。

 平安時代に大蔵卿をも歴任した大江匡房が編纂した「対馬貢銀記」には「島中には珍寶充溢し、白銀・鉛・錫・金・漆の類を長く朝貢す」*4という記述がある一方で、「朝鮮で採れた砂金を対馬産と偽つて献上したものらしい」と日本学士院日本科学史刊行会編「明治前日本鉱業発達史」は記しているという*5。したがっていずれが正しいのか判断しがたい。
 なお続日本紀」がわざわざこのような註記をしている点が興味深い。邪推だが、この鉱山が金を有していたことを隠しているかのようだ。

対馬と銀

 他方で対馬では銀が採掘されてきたことは非常に有名だ。白鳳3年(西暦674年)に対馬ではじめて銀が採掘され朝廷に献上されている*6。8世紀から13世紀までわが国唯一の銀山であったという*7。大正時代には、スイス人シーファーブルが銀鉛鉱山として対州鉱山*8を経営してきた。

対馬と銅

 余談だが、江戸時代に朝鮮貿易の中継地であった対馬から李氏朝鮮へ輸出された銅は住友家が主要な供給主であり、住友家による対馬藩への借款額は断然1位を占めていた*9

対馬と鉛・亜鉛

 古代・近代に開発されてきたわが国の鉱山分布はこうなる*10


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(出典:独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構

鉱床についてはたとえば上原幸雄(1959)「対州鉱山の地質鉱床とその探鉱について」鉱山地質vol.9, no.37, p.265~275,1959に詳しい*11

まとめ

 対馬は地理的に朝鮮半島に近いだけでなく、鉱山=資源の意味でもわが国を支えてきたことが分かる。これは筆者の想像に過ぎないのだが、対馬氏がここまで重視されてきたのは、その外交・防衛関係のみならず、こうした鉱山運営およびそこで生産した鉱物資源の管理もあって重視されてきたのかもしれない。
 なおこの対州鉱山からはカドミウム汚染が生じており、その汚染は未だに監視対象となっている*12

【参考文献】
吾妻潔「対馬国貢銀記とその製錬法」日本鉱業会誌/91 1051 ('75-9) 607 <37>
一般社団法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構「2007.11 金属資源レポート」
一般社団法人対馬観光物産協会「対馬神社ガイドブック~神話の源流への旅~」
岩松繁俊(1975)「東邦亜鉛対州鉱業所のカドミウム汚染 -企業内部告発文書」経営と経済, 54(4), pp.137-157; 1975
上原幸雄(1959)「対州鉱山の地質鉱床とその探鉱について」鉱山地質vol.9, no.37, p.265~275,1959
九州大学総合研究博物館「特別展示 地球惑星科学への招待 鉱床、鉱脈の形成 対馬の銀・鉛・亜鉛鉱脈はいつどのようにして形成されたか?」
新居浜市立図書館「講座『別子銅山を読む』」(http://lib.city.niihama.lg.jp/besshi-douzan/besshi-douzan-kouza-r%ef%bc%92/
北海道・地質・古生物(http://borealoarctos.blogspot.com/2010/08/blog-post_31.html
冶金の曙(http://homepage1.canvas.ne.jp/e_kamasai/Metallurgy/yakin/bangai.html
渡辺晃宏(2009)「平城京と木簡の世紀 日本の歴史04」講談社学術文庫

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