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【世界史】米国にあるドイツ ~「フィラデルフィア・ダッチ」小史~

 今の高校世界史の教科書でどのように扱われているのかは知らないが、我々の世代だと米大陸を発見したのはアメリゴ・ヴェスプッチであることは学ぶものの「アメリカ」を命名したのがドイツ人マルティン・ヴァルトゼーミューラーであることはあまり知られていない。新大陸を呼称するのにヴェスプッチの名前を当時のリングァ・フランカ(Lingua franca)であるラテン語での国名風にアレンジしたものが「アメリカ」なのである。ここからでもドイツとの関係性が窺えるのだが、それ以上に米国への移民の中でもドイツは大きな割合を占めている。

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移民先祖の上位15位(出典:US Census 2000)

 個人的にドイツと米国の関係を聞いたことがあったものの、それが具体的にどのようなものなのかをよく知らなかった。そこで簡単にまとめてみたい*1
 欧州の中でも植民地の獲得に当初熱心でなかったドイツだが、米国初の植民地で1607年に開発されたジェームズタウンに既に数名のドイツ人がいたという*2。とはいえ、もっとも有名なのはペンシルヴェニアだろう*3

1683年、デュッセルドルフの北にある小さな町クレーフェルトの13家族がイギリスのロンドン経由でアメリカに渡り、現在のペンシルバニア州にジャーマンタウンを建設した(中略)。彼らは全員クェーカー教徒であった。(中略)
 このクェーカー教徒が属していたフレンズ教会の設立者はイギリス人のフォックスであるが、彼の番頭的存在で力をふるったのは同国人のウィリアム・ペンである。ペンに心酔したクレーフェルトの牧師パストリウスがウィリアム・ペンのもとに13家族を引き連れて行ったのである。州名ペンシルベニアは、「ペンの森」の意でウィリアム・ペンの名にちなんでいる。開拓が進む過程でジャーマンタウンはフィラデルフィアという名称になった。ここには以後ドイツ系移民が多く流入し、その子孫たちはペンシルベニア・ダッチと呼ばれる。

 なお、元来はドイツをさす言葉であったダッチ(Dutch)を用いて「ペンシルヴェニア・ダッチ」と呼ばれる彼らの中で、もっとも有名なのはドワイト・アイゼンハワー第34代大統領だろう。
 このペンシルヴェニア州が「ヨーロッパの諸宗派にも広く門戸を開き、さらに先住民との友好を追究するなど、自らの言う「神聖なる実験」を試み」*4た場所であり、「彼(引用者註:ウィリアム・ペン)の名づけた「兄弟愛の町」フィラデルフィアは政治・経済の中心として繁栄」*5した。フィラデルフィアは独立宣言や合衆国憲法が誕生した土地であることを付言する。

 これ以外にも米国史の随所でドイツが現れる。まずは1775年からの米独立戦争である。米軍、英軍ともにプロイセン・ドイツの出身者が重要な役割を果たしていたのである*6。さらには公用語問題がある。1795年、米国の公用語がドイツ語になる可能性があったのだ*7

1795年に英語・独語2ヶ国語論争というものがあった。それはフィラデルフィア議会でアメリカの国語を英語だけでなくドイツ語も国語にしたらどうかとの提案がなされ、それに伴って起こった論争である。ドイツ人社会のリーダーであったフレデリク・ムーレンベルク議員がこれから一つの国になるときに二つの言葉があってはまずい、英語だけにすべきだと熱弁をふるった。採決の結果わずかな票差で英語一言語に決まりドイツ語が消えた

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ドイツ人を先祖に持つ米国人の分布(出典:Business Insider)



 また1849年には米国でのゴールドラッシュとフランスでの2月革命が重なったことで、ドイツ移民が多数、米国へ流入したのだった*8

 1849年という年はアメリカにおいて重要なことが重なった年である。一つはゴールドラッシュ、もう一っはヨーロッパでの革命の余波である。前年の1848年の2月に「2月革命」が起こった。フランスのパリからすぐにドイツの小さい領邦国家群(39の国から成っていた)に飛び火し、「3A革命」が企てられたのである。改革派の指導者たちは領主を追放して民衆が中心になるいわゆる民主主義の社会を目指そうとフランクフルトのパウル教会(Paulskirche)に参集し、新ドイツ建設を標榜したのであるが、権力側に鎮圧され挫折してしまった。そこで鎮圧された側の民衆の多くは新しい国であるアメリカへの移住を決意する。1849年はゴールドラッシュと3月革命挫折後のドイツからの大きな移民のうねり、この二つが重なった

彼らドイツ移民が発展させた街がサンフランシスコでありテキサスなのだという。

 このようにドイツと米国の関係は切っても切れないほどに深かったのだが、第一次世界大戦第二次世界大戦で敵対したことでドイツ系米国人は軒並み「ドイツ色」を消した(その一例が、フランクフルト・ソーセージがホットドッグに替わったことである)*9。そうではあっても、米国を語るにはドイツを語らなければならないのである。

*1:本稿は主にこれを参照した:遠山義孝(2010)「ドイツとアメリカードイツ系アメリカ人の隠れた系譜ー」明治大学教養論集 通巻451号(2010・1)( https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10938/1/kyouyoronshu_451_109.pdf )。以降、遠山(2010)と記述する

*2:遠山(2010)P.115

*3:遠山(2010)P.120

*4:「和田光弘「シリーズ アメリカ合衆国史① 植民地から建国へ 19世紀初頭まで」」P.48

*5:同上

*6:遠山(2010)P.120

*7:遠山(2010)P.123。より詳しいものはこちらを参照されたい:Paul Adams, Willi(1993),“The German Americans: An Etnic Experience”の Chapter Seven: German or English?( https://web.archive.org/web/20080513205649/http://www.ulib.iupui.edu/kade/adams/chap7.html

*8:遠山(2010)P.123

*9:https://www.npr.org/2017/04/07/523044253/during-world-war-i-u-s-government-propaganda-erased-german-culture

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