はじめに
ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、それまでも抱いていたロシアのインテリジェンス活動への興味が一層深まった。とある経緯も相まっていよいよ本気で調べたいと思い、
を読むことで“ロシアのやり方”を学んでいく*1。
目次
ミトロヒン文書とは
- ミトロヒン文書は、1992年3月に旧ソビエト連邦からイギリスに亡命した元ソ連国家保安委員会(KGB)幹部要員であったワシリー・ミトロヒンが密かにソ連から持ち出したスパイ活動や防諜、宣伝・プロパガンダ工作、積極工作の詳細を含む機密文書を指す。
- これまでに流出してきた機密文書よりもカバーしている範囲が圧倒的に広く多様であることが特徴である。
本書の構成
上巻は"The Mitrokhin Archive: The KGB in Europe and the West"、下巻はThe Mitrokhin Archive II: The KGB and the Worldのことを指す。
上巻 | 章 |
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1. |
ミトロヒン文書とは | |
2. |
レーニンのチェーカからスターリンのまで | |
3. |
偉大なる不法者 | |
4. |
荒野の5人 | |
5. |
粛清 | |
6. |
大戦 | |
7. |
大同盟 | |
8. |
勝利 | |
9. |
大戦から冷戦へ | |
10. |
主要な敵対国その1 1950年代の北米不法滞在者 | |
11. |
主要な敵対国その2 冷戦初期の合法滞在 | |
12. |
主要な敵対国その3 「アベル」以後の不法滞在者 | |
13. |
主要な敵対国その4 冷戦後期の合法滞在 | |
14. |
政治的抗争 アクティブ・メジャーズと主要な敵対者 | |
15. |
作戦の進行その1 プラハの春鎮圧 | |
16. |
作戦の進行その2 ソビエト圏への諜報活動 | |
17. |
KGBと西側共産党 | |
18. |
ユーロコミュニズム | |
19. |
イデオロギーの転覆その1 反体制派との戦争 | |
20. |
冷戦下でのシギント | |
21. |
特務活動その1 チトー将軍からルドルフ・ヌレエフまで | |
22. |
特務活動その2 アンドロポフ時代とその後 | |
23. |
英国に対する冷戦作戦その1 荒野の5人以後 | |
24. |
英国に対する冷戦作戦その2 FOOT作戦後 | |
25. |
ドイツ連邦共和国 | |
26. |
冷戦期のフランスとイタリアーエージェント浸透とアクティブ・メジャーズ | |
27. |
ソ連教会への浸透と迫害 | |
28. |
ポーランドの教皇と「連帯」の勃興 | |
29. |
ポーランド危機とソビエト圏の崩壊 | |
30. |
結論―一党独裁制からプーチン政権へ―ロシア・インテリジェンスの役割 | |
31. |
補足 | |
下巻 | 章 |
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1. |
序章:「世界は我々のやり方で動いてきた」 | |
ラテンアメリカ | 2. |
ラテンアメリカ:序章 |
3. |
橋頭保 1959-1969 | |
4. |
「進歩的」政権と赤ワインを備えた社会主義 | |
5. |
||
6. |
||
中東 | 7. |
中東:序章 |
8. |
エジプトにおけるソ連の影響力の栄衰 | |
9. |
イランとイラク | |
10. |
シリアとの同盟の成立 | |
11. |
イエメン人民民主共和国 | |
12. |
イスラエルとシオニズム | |
13. |
中東テロとパレスチナ | |
アジア | 14. |
アジア:序章 |
15. |
中華人民共和国 「永遠の友情」から「永遠の憎悪」へ | |
16. |
日本 | |
17. |
インドとの特別関係その1 インド国民会議の支配権 | |
18. |
インドとの特別関係その2 会議の衰亡 | |
19. |
パキスタンとバングラデシュ | |
20. |
ソ連のイスラム | |
21. |
アフガニスタンその1 4月革命からソ連侵攻まで | |
22. |
アフガニスタンその2 戦争と敗北 | |
アフリカ | 23. |
アフリカ:序章 |
24. |
冷戦のアフリカへの到来 | |
25. |
楽観から幻滅へ | |
26. |
結論:ロシアおよび世界でのKGB |
0. KGBの概歴
0.1 機関の歴史
1917年12月 | チェーカー(Cheka)創設 | |
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1922年2月 | 内務人民委員部(NKVD)に吸収されGPUに改名 | |
1923年7月 | 内務人民委員部(NKVD)から独立して合同国家政治保安部 (OGPU)に改名 | |
1934年7月 | 内務人民委員部(NKVD)に再度吸収され国家保安部(GUGB)に改組 | |
1941年2月 | 内務人民委員部から国家保安人民委員部(NKGB)が独立 | |
1941年7月 | 内務人民委員部(NKVD)に三度吸収され国家保安部(GUGB)に改組 | |
1943年4月 | 内務人民委員部(NKVD)と国家保安人民委員部(NKGB)が再び分離 | |
1946年3月 | 国家保安省(MGB)が設立 | |
1951年11月 | 対外情報機関をソ連情報委員会(KI)に移設 | |
1953年3月 | 内務省(MVD)の権益拡大のために内務省と統合 | |
1954年3月 | KGB創設 | |
1991年12月 | KGB解散 |
0.2 歴代KGB議長
1917-26年 | フェリックス・ジェルジンスキー | |
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1926-34年 | ヴャチェスラフ・メンジンスキー | |
1934-36年 | ゲンリフ・グリゴリエヴィチ・ヤゴーダ | |
1936-38年 | ニコライ・エジョフ | |
1938-41年 | ラヴレンチー・ベリヤ | |
1941年 | フセヴォロド・メルクーロフ | |
1941-43年 | ラヴレンチー・ベリヤ | |
1943-46年 | フセヴォロド・メルクーロフ | |
1946-51年 | ヴィクトル・アバクーモフ | |
1951-53年 | セミョーン・イグナチェフ | |
1953年 | ラヴレンチー・ベリヤ | |
1953-54年 | セルゲイ・クルグロフ | |
1954-58年 | イワン・セーロフ | |
1958-61年 | アレクサンドル・シェレーピン | |
1961-67年 | ウラジーミル・セミチャストヌイ | |
1967-82年 | ユーリ・アンドロポフ | |
1982年 | ヴィタリー・フェドルチュク | |
1982-88年 | ヴィクトル・チェブリコフ | |
1988-91年 | ウラジーミル・クリュチコフ | |
1991年 | ワジム・バカーチン |
1. アジア
※下巻 P.263~
1.1 序章
- 冷戦期間において共産主義が最も浸透したのはアジアであり、共産主義はもっとも人口の多い国である中国、その隣国である北朝鮮、旧仏領インドシナの全域(南北ベトナム、ラオスおよびカンボジア)およびアフガニスタンに入って行った。
- しかし皮肉なことに1960年代初頭からソビエトによる対外情報活動にとって最も困難な標的となったのは、アジアの共産主義におけるハートランド*2であった。
- 毛沢東と金日成が自国を、西側情報機関がスターリンのソ連に対して見出したように、KGBが活動を行うのが困難であると気付くような管理国家にしたのだった。
- スターリンは、中国と北朝鮮が世界共産主義のモスクワによる主導に対して抵抗するような日がいつか来ると考えることは決して無かったようだ。1960年代初頭の中ソ対立は、スターリンが当然視していた中国による恭順を終わらせる結果となった。
- モスクワへの初めての公的な攻撃は、毛沢東の片腕であった康生(Kang Sheng)によりなされた。毛沢東による大躍進の間に行われた猛烈な大粛清は、その大部分を康生が大粛清期間にモスクワで学んだ技術をモデルとしていた。ソヴィエトにとってみれば、中国とのイデオロギー上の論争は、毛沢東("大舵手")の個人的な嫌悪および中国人全般を一般に嫌っていたことから成り立っていた。
- クレムリンと共産党中央委員会を最も激昂させたのは、北京政府が厚かましくも自らを世界共産主義において競合となる都市と見なし、ソ連と正統な恭順関係を結んでいた他地域の共産党を誘惑するような姿勢を見せ始めたことだった。アジアにおいて最大規模を誇った非主流派の日本共産党が中国側に付くことを決定した際には、これまで重要な情報資産だったものをKGBから奪うことにつながり、同派は敵対勢力としてKGBの標的にされた。
1.1.1 ソ連とベトナム
- 西洋の観察者には、ソ連にとって最も問題の少なかったアジアの共産政権はベトナムであったように映るようだ。しかし熱烈なナショナリストだったホー・チ・ミンや北ベトナム政府はモスクワと北京のいずれからも指導を受けることを拒絶すると決定していた。ソ連との友好国として永遠の友好関係を謡うようなリップサービスを図るものの、北ベトナムの情報機関はKGBと一定の距離を置いていた。
- モスクワ側もベトナム側のこの姿勢を理解しており、永遠の友好を醸成すべく努めた一方でハノイ駐在のKGB局員は西側都市で行うのと実に同じような敵対行動を取っていた。1975年、同局はベトナム軍の配置、ベトナムの内部状況および中国国境の状況に関するインテリジェンスを獲得することを目的とした25人のエージェントと50の極秘接触員を抱えていた。しかし、北京や平壌ほどに敵対的とは程遠い環境であったにもかかわらずハノイはKGBが活動するには実に厳しい環境であった。
1.1.2 ソ連とインド
- ソ連中央委員会が最も誇りとしていたアジアにおけるインテリジェンス上の成功事例は、世界で2番目に大きな人口を抱え最大の民主主義国家であるインドであった。KGBにとって中共や北朝鮮、ベトナムよりもずっと協力的な環境にあったのが民主主義下にあるインドだと見出したのは、実に皮肉である。インドの民主主義の解放具合はメディアや政治システムに蔓延る汚職と相まってソ連によるインテリジェンス活動に対して多数の機会を与えることになった。
- オレグ・カルーギン*3が「インド政府―情報機関、防諜機関、防衛省および外務省ならびに警察―を通じた多数の情報源」と呼称したものに加え、日本やパキスタン、また他のアジア諸国に対する工作と同一の方法でインド大使館への浸透に成功したことで、その量は未だに数えられていないものの、おそらく多量のインド外交公電の解読が進んだ。
- ソ連の中枢はインドとの特別な関係を南アジア政策の基盤と見なしていた。中国に対する脅威に対するモスクワとニューデリーの懸念が増大するにつれてその特別な関係は重大になっていった。
- KGBによるインドでのアクティブ・メジャーズ*4の主要な目的は、ソ印間の特別な関係を深めるのと米国の疑義を強めることを助長することにあった。
1.1.3 ソ連とアジアのイスラーム国家
- アジアのイスラーム教国地域内において、アフガン戦争以前、KGBの主要な優先事項は主要なイスラーム教徒のソ連への忠誠を監視することにあった。第二次世界大戦以後、ソ連の対ムスリム教徒政策の基本は、ロシア正教会に対するものと同様に、自らに媚びへつらう宗教的階層を創り出すことにあった。
- しかし、ソ連領内のイスラーム教徒の公的な階層に対するKGBによる浸透や影響に対して、イスラーム教徒の生活の殆どはソ連共産党中央委員会によるコントロールの範囲外にあった。キリスト教やユダヤ教に比べ、イスラーム教は公的な宗教指導者から独立していた。コーランを読むことができ、イスラームの教義に則ったイスラム教徒は、結婚や葬儀といった儀式において職務を果たすことができた。
- アフガン戦争は、ソ連に対する世界中のイスラーム教徒の世論が変化したのと同様に、イスラーム教徒からの忠誠に対する信頼を覆すことになった。
- ベトナム戦争での米国の敗北は国際情勢における米国の威信を一時的に失うのみで済んだ一方で、アフガン戦争はソ連のシステムの基盤を弱体化させることになった。